音楽評論家、ミュージシャン、DJ、占い師:鳥井賀句の日々徒然のブログ
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3月7日(金)
約1ヶ月ほど、カキコもご無沙汰していた。
一つには「ニューヨーク・ストリート・ロック・コレクション」と題した紙ジャケによるコレクタ-ズCDの復刻の監修の仕事をしていて、エリオット・マーフィーやシルヴェイン・シルヴェインのアルバムの解説や歌詞対訳を400字詰め原稿用紙で100枚以上書いていたから、暇がなかったのと、原稿の仕事が終わると、深夜1時から3時頃まで、毎日ヤクザ映画のVIDEOを観ていたからだ。
東京に出てきて予備校に通っていた頃、毎週土曜日には池袋の文芸座のオールナイト5本立てをよく観にいっていた。予備校で知り合った奴がヤクザ映画の大ファンでそいつに連れられて観に行くうちに、オレもはまってしまった。鈴木清順の初期作品は大体そこで観たし、「東京流れ者」に出ていた渡哲也にしびれ彼の「人斬り五郎」シリーズは何回も観たものだ。
最近、レンタルVIDEO店がDVDに移行したため、古いレンタル落ちのVIDEOがヤフオクなどで500円くらいで売られていて、そこで懐かしさも手伝って渡哲也の初期ヤクザ映画のVIDEOや、石井輝夫や鈴木則文監督らのスケバン映画や、B級カルト映画のVIDEOをせっせと集めているのである。
渡哲也というと、一般的には「西部警察」とかの石原軍団のイメージが強いのだろうが、ボクは彼が1966-1976年あたりにかけて出演していたヤクザ映画の大ファンだ。特に実在したヤクザ藤田五郎の脚本による「人斬り五郎」シリーズは、皆どれも同じような筋書きなのだが、何度見ても面白いし、ジンと胸に来る。ヤクザなんて実際は弱いものを暴力でいじめ、金をまきあげ、女を犯して虐待すると言うひどい野郎が殆どなんだが、渡哲也演じる人斬り五郎は、素人の女には絶対に手は出さないし、かたぎの人には関わらない。彼は自分の恩のある親分や兄弟や子分がピンチに会った時、その恩や仁義のために、自分の命を張ってドス一本で大勢のヤクザに立ち向かっていくのである。オレはことさら暴力シーンが好きでヤクザ映画を観ているわけではない。「義理」とか「仁義」という考え方が好きなのだ。あるいは「これだけは許すことはできない」という自分の「哲学」とか「信念」、そういうものを簡単には捨てられない、いわば男たちのハードボイルドな美学というものに惹かれるのだ。自分の愛していた女や身内が虫けらのようになぶり殺しにされたら、普通は法の裁きを待つのが常識だが、彼らは、自分の手でおとしまえをつけるために、戦いを挑んでいく。それはこの現代市民社会、法治国家からは逸脱した犯罪行為だろうが、オレにはその心情は痛いほど理解できる。自分自身が暴力には暴力でとか、目には目をの復讐の論理を行使しようとは思わないが、ただひとつ「これだけは、許すことはできない」という気持ちというか掟や哲学を持つことは絶対に必要だと思っている。マーマー、まー、いいーじゃないか・・という「義理」も「正義」も「人情」も「恩」も忘れ去られてしまった軽佻浮薄な人間ばかりが溢れかえる世の中だが、相手や自分の不義理や仁義に反したことには、暴力はよくないが、はっきりと白黒をつけ、謝罪したり反省したりする心を忘れ去ってはならないと思っている。大人なら自分のウンコは自分で拭くように、自分が犯した過ちの尻拭いは自分で拭かねばならないのだ。渡哲也は実際にも仁義に厚い人で、先輩の石原裕次郎が大借金を抱えて困っていた時に、自分の全貯金1000万円を下ろしそれを持って石原プロの門を叩いたと言うし、淡路島出身の彼は、阪神大震災のときに石原プロ率先して、被災者に炊き出しを配りにいったものである。彼の昔のヤクザ映画を観ていると、今の時代には見当たらない「仁義」や「命をかけた友情や愛情」というものにジンときてしまう。
その仁義を全く捨て去った実在した狂気のヤクザ、石川力夫を渡哲也が演じた『仁義の墓場』(1976)という映画が凄い。あの深作欣二監督作だが、親分や友達もぶっ殺し、シャブ漬けになりながら、ひたすら狂気に落ち込んで行った石川力夫の底知れぬ業のようなものを、渡哲也はまさに鬼気迫る演技力で演じている。現在の穏やかなおじさん役の渡ではなく、この当時の渡哲也は本当に凄いとしか言いようがない。同じく深作監督でシャブ中の刑事を演じた『やくざの墓場:くちなしの花』というのも凄いが、やはりこの『仁義の墓場』は、DVD化もされているので、一度は観ておいて欲しい凄い映画であると思う。
約1ヶ月ほど、カキコもご無沙汰していた。
一つには「ニューヨーク・ストリート・ロック・コレクション」と題した紙ジャケによるコレクタ-ズCDの復刻の監修の仕事をしていて、エリオット・マーフィーやシルヴェイン・シルヴェインのアルバムの解説や歌詞対訳を400字詰め原稿用紙で100枚以上書いていたから、暇がなかったのと、原稿の仕事が終わると、深夜1時から3時頃まで、毎日ヤクザ映画のVIDEOを観ていたからだ。
東京に出てきて予備校に通っていた頃、毎週土曜日には池袋の文芸座のオールナイト5本立てをよく観にいっていた。予備校で知り合った奴がヤクザ映画の大ファンでそいつに連れられて観に行くうちに、オレもはまってしまった。鈴木清順の初期作品は大体そこで観たし、「東京流れ者」に出ていた渡哲也にしびれ彼の「人斬り五郎」シリーズは何回も観たものだ。
最近、レンタルVIDEO店がDVDに移行したため、古いレンタル落ちのVIDEOがヤフオクなどで500円くらいで売られていて、そこで懐かしさも手伝って渡哲也の初期ヤクザ映画のVIDEOや、石井輝夫や鈴木則文監督らのスケバン映画や、B級カルト映画のVIDEOをせっせと集めているのである。
渡哲也というと、一般的には「西部警察」とかの石原軍団のイメージが強いのだろうが、ボクは彼が1966-1976年あたりにかけて出演していたヤクザ映画の大ファンだ。特に実在したヤクザ藤田五郎の脚本による「人斬り五郎」シリーズは、皆どれも同じような筋書きなのだが、何度見ても面白いし、ジンと胸に来る。ヤクザなんて実際は弱いものを暴力でいじめ、金をまきあげ、女を犯して虐待すると言うひどい野郎が殆どなんだが、渡哲也演じる人斬り五郎は、素人の女には絶対に手は出さないし、かたぎの人には関わらない。彼は自分の恩のある親分や兄弟や子分がピンチに会った時、その恩や仁義のために、自分の命を張ってドス一本で大勢のヤクザに立ち向かっていくのである。オレはことさら暴力シーンが好きでヤクザ映画を観ているわけではない。「義理」とか「仁義」という考え方が好きなのだ。あるいは「これだけは許すことはできない」という自分の「哲学」とか「信念」、そういうものを簡単には捨てられない、いわば男たちのハードボイルドな美学というものに惹かれるのだ。自分の愛していた女や身内が虫けらのようになぶり殺しにされたら、普通は法の裁きを待つのが常識だが、彼らは、自分の手でおとしまえをつけるために、戦いを挑んでいく。それはこの現代市民社会、法治国家からは逸脱した犯罪行為だろうが、オレにはその心情は痛いほど理解できる。自分自身が暴力には暴力でとか、目には目をの復讐の論理を行使しようとは思わないが、ただひとつ「これだけは、許すことはできない」という気持ちというか掟や哲学を持つことは絶対に必要だと思っている。マーマー、まー、いいーじゃないか・・という「義理」も「正義」も「人情」も「恩」も忘れ去られてしまった軽佻浮薄な人間ばかりが溢れかえる世の中だが、相手や自分の不義理や仁義に反したことには、暴力はよくないが、はっきりと白黒をつけ、謝罪したり反省したりする心を忘れ去ってはならないと思っている。大人なら自分のウンコは自分で拭くように、自分が犯した過ちの尻拭いは自分で拭かねばならないのだ。渡哲也は実際にも仁義に厚い人で、先輩の石原裕次郎が大借金を抱えて困っていた時に、自分の全貯金1000万円を下ろしそれを持って石原プロの門を叩いたと言うし、淡路島出身の彼は、阪神大震災のときに石原プロ率先して、被災者に炊き出しを配りにいったものである。彼の昔のヤクザ映画を観ていると、今の時代には見当たらない「仁義」や「命をかけた友情や愛情」というものにジンときてしまう。
その仁義を全く捨て去った実在した狂気のヤクザ、石川力夫を渡哲也が演じた『仁義の墓場』(1976)という映画が凄い。あの深作欣二監督作だが、親分や友達もぶっ殺し、シャブ漬けになりながら、ひたすら狂気に落ち込んで行った石川力夫の底知れぬ業のようなものを、渡哲也はまさに鬼気迫る演技力で演じている。現在の穏やかなおじさん役の渡ではなく、この当時の渡哲也は本当に凄いとしか言いようがない。同じく深作監督でシャブ中の刑事を演じた『やくざの墓場:くちなしの花』というのも凄いが、やはりこの『仁義の墓場』は、DVD化もされているので、一度は観ておいて欲しい凄い映画であると思う。
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鳥井賀句