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音楽評論家、ミュージシャン、DJ、占い師:鳥井賀句の日々徒然のブログ
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5月9日(土)
★久々の晴天。この日は午後1時から青山葬儀所で、忌野清志郎の葬儀が行われた。朝のTVを見ていたら、オレも線香をあげに行きたいという気持ちが沸き起こってきて、午後1時からの葬儀の30分前に青山葬儀所に着いた。だが昨日から並んでいる人たちもいて、既に青山葬儀所の周りは何万人もの人たちが列をなして並んでいた(4万人きたそうだ)。いちおうオレも列に並んでみたが、結局2時間待っても列は殆ど前に進まない。レコード会社に電話して、業界の関係者口から入れば、もっと早く入れたと思うが、なんか一般のファンと同じ立場で追悼したいなと思ったのだった。この日の夜は吉祥寺のGBにSHEENA&THE ROKKETSを観にいく予定だったので、後ろ髪を引かれる思いで、結局葬儀所の外から清志郎にテレパシーで安らかに眠ってください・・・とメッセージを送って岐路に着いた。7月25日に渋谷「青い部屋」で清志郎追悼ライヴをオールナイトでやる。大手プロモーターも有名ミュージシャンを集めて彼の追悼ライヴをやるだろうが、ボクはライヴハウスで歌っている無名のミュージヂャンたちの多くが、清志郎をリスペクトし、彼の影響を受けていることを知っている。事実、追悼ライヴの参加を呼びかけたら、是非出たい!というバンドやアーティストたちが殺到していて、調整に追われているのが現状だ。経費を引いた利益は香典として、彼の家族に送る予定だ。参加バンドは全員最低1曲のRCか清志朗の曲をカヴァーする。今からとても楽しみだ。一晩中、清志郎の歌が歌い続けられるだろう。

★夜、吉祥寺に1年前にOPENしたGBに、SHEENA&THE ROKKETSのワンマン・ライヴを久々に観にいく。満員の会場には佐野史郎の姿も。聴いていて今までと違う点は、SHEENAのヴォーカルの声が、昔のコケティッシュな声に戻ってきたことだ。はっきりいうと、ここ何年か、SHEENAの声の調子は決していいとは言えなかった。煙草を1日に60本も吸うという彼女は声を枯らして、ガラガラ声になっていた。昔一度SHHENAに煙草をやめたほうがいいと言ったことがあるが、彼女は煙草はやめられんのよ、と言っていた。ミック・ジャガーもイギー・ポップも故ジョーイ・ラモーンも、プロのヴォーカリストはみんな声のために煙草を止めている。終焉後SHEENAに聞いたら、やっと煙草をやめたとのこと。それによって、昔のコケティッシュな声の魅力が戻ってきていて、「YOU MAY DREAM]や「SWEET INSPIRATION]といったミディアム・ナンバーが実に魅力的だった。加えて浅田孟がベースに復帰し、彼のグルーヴ感満開のベース・プレイと川島のパワー・ドラムが一体となり、最高のリズム・グルーヴを創出する中を、鮎川誠のギターが水を得た魚のように縦横自在にバリバリにロッキン・フレイズを弾きまくる。ナベちゃんとのツイン・ギターになったことで、ギター・サウンドはMC5ばりの迫力を増していた。いや、シナロケはデヴュー時から30年見てきているが、今のシナロケは再び彼等の歴史の上で、最好調のレベルに達していることに感動、感激した。未だにシンプルでストレートに、真正面からロックンロールとパンクを飲み込んで、それを素晴らしいエナジーとグルーヴで放射する彼らSHEENA&THE ROKKETSは、まさに日本の国宝級の最高のロックン・ロール・バンドである。GOD BLESS SHEENA&THE ROKKETS!
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5月2日(土)
ガンと闘っていた忌野清志郎が、58歳でこの世を去った。一時は、回復して武道館でも復活したのに、本当にショックだし残念だ。
清志郎のステージはまだRCサクセションが、フォーク・バンドの頃の70年代初期から見ている。清志郎とはRCがロックになってから80年代に何度かインタヴューしたことがある。彼と親しくなったのは、ジョニー・サンダースが最期の来日をした91年で、清志郎が丁度来日していたジョニーに声をかけ、丁度RCがレコーディングしていた『COVERS』のアルバムのレコーディングにジョニーを誘った時だ。ジョニーの私設マネジャーをしていたボクはその前に原宿クロコダイルの山口冨士夫のライヴにジョニーと清志郎を連れて行き、3人のセッションが実現した。
その後深夜に東芝のレコーディング・スタジオにジョニーを連れて行き、ジョニーは2曲をRCと録音した。そして4月にジョニーが死ぬと、その追悼ライヴに清志郎は真っ先に参加を申し込んでくれ、ボクが編集したジョニーの追悼写真集にも、暖かい文章を寄せてくれた。翌歳の正月には子供が生まれた清志郎から年賀状が届いたのは、ボクのひそかな自慢の一つだった。
R&Bに根ざした類まれなる歌唱力とグレイトなライヴ・パフォーマンスも素晴らしかったが、彼はどこまでも反骨精神の持ち主で、反原発や反権力の歌詞をブラックな笑いと共に歌い続けた本物のパンクだったと思う。
7月25日(土)に渋谷「青い部屋」で彼の追悼LIVEをやることにする。経費を引いた利益は、全て彼の家族に送る予定だ。清志郎のご冥福を心より、お祈りする。

<訃報>忌野清志郎さん58歳=ロック歌手 がん治療続け

5月2日22時54分配信 毎日新聞

<訃報>忌野清志郎さん58歳=ロック歌手 がん治療続け
忌野清志郎さん
 「ベイベー!」や「愛し合ってるかーい!」などの決めぜりふ、奇抜な衣装と演出で知られるロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日、がん性リンパ管症のため死去した。58歳だった。葬儀は9日午後1時、東京都港区南青山の青山葬儀所。喪主は妻の栗原景子(くりはら・けいこ)さん。

 東京生まれ。68年に中学校の同級生らと、忌野さんをリーダーとするバンド「RCサクセション」を結成、70年に「宝くじは買わない」でデビューした。72年には「ぼくの好きな先生」が、80年には「雨あがりの夜空に」が大ヒット。82年には坂本龍一さんと組んでリリースしたシングル「い・け・な・いルージュマジック」が社会現象を巻き起こし、日本の「ロックの神様」としてコンサートのほか、CMや映画などで活躍した。

 一方、「音楽は時代の刺激剤であるべきだ」との信念を持ち、政治的なメッセージを込めた歌も歌った。そのため、反原発を扱ったアルバム「COVERS」やパンクロック風にアレンジした「君が代」が入ったアルバム「冬の十字架」が一時、発売中止になったり、コンサートで突然「あこがれの北朝鮮」「君が代」を歌って、FM中継が中断したこともあった。

 06年7月に喉頭(こうとう)がんと診断され入院。治療を続けた後、08年2月に日本武道館で本格復帰した。しかし、同7月、左腸骨にがんが転移していたことが判明、再び活動を中止し放射線治療などを続けていた。

 ◇自分の道を貫いた

 ▽音楽評論家、田家秀樹さんの話 日本のロックバンドと日本語のロックの原形をつくった人だった。忌野さんがリーダーだったRCサクセションは、黒人音楽と日本語を初めて結びつけ、またビジュアル系の元祖でもあった。反原発の曲をつくるなど、ロックが反骨であると証明し続けた。妥協もこびることもなく、音楽一筋を貫き通したと言える。死は早すぎた。

 ◇聞く者に力与えた

 ▽音楽評論家、天辰保文さんの話 清志郎さんの根底には黒人音楽への敬意があり、それをエンターテインメントの形で日本に定着させた功績は大きい。権威への反逆も一貫していたが、それをユーモアにくるみ、さりげなく表現していた。実はシャイな人だったと思う。彼の音楽には「彼は常に信頼できる人であり、自分もしっかりしなければ」と、聞く者に思わせる力があった。

 
4月22日(水)
★朝10時半に東京駅に集合。車で行くより早いし、大阪まで4時間かかるが、こだまのトクトク切符の方が効率がいい。3時に難波のグリーン・インにCHECK INし、十三のファンダンゴへリハに。十三で大阪在住の悪友ジョージと再会。数年前までは中古レコードと雑貨の店をやっていたが、今は個人で激安海外ツアーのコーディネイターをやっている。スケベさとオヤジギャグにかけてはオレといい勝負だ(笑)。リハを終えると対バンのピカレスクとジョージと一緒に、6時まで生ビール250円の激安居酒屋へ。牛すじの煮込みのドテ焼きと豚肉を玉子でくるんだ、トンペイ焼きにはまる。
ファンダンゴは音的にややこもっていて、我々としては70点の出来か。この日の対バンは、現ピカレスクのギターで、ばるぼらの片山ミチロウ君に任せた。女性上位時代とタイトルが付いている如く、全て女性ヴォーカルのバンドばかり。平日の水曜ということもあり、客の入りは半分程度。それでもCD5枚売れ、懐かしい関西圏の知人と何人か再会できた。終焉後、ジョージの案内で「もぐらや」という普段は中古品屋が、店の中でテーブルを広げ自宅風バーにしているところへ連れて行かれる。常連の見ず知らずの人たちと初対面でバカ話しをして盛り上がる。

4月23日(木)
★午前中に阪急電車で京都河原町のセントラル・インにチェックイン。その後三十三間堂を観光し、七条から四条まで歩き、新京極でうな重の昼食。御池にある「夜想」でリハーサル。ここの店長が「青い部屋」の内装を参考にしたというだけあり、店内は狭いがレトロ&デカダントないい雰囲気。我々はとてもノリノリで楽しんで演奏できた。対バンのレッド・イル・プリンセスは皆メンバーが可愛いゴチック風味のギャル・パンク。店長のマーチンくんが歌うジェット・ペッパー・タワーは、グラムとゴチックが合体したようなバンド。ルックスもいいし歌も演奏も上手い。ピカレスクはアコーディオンが入ったスージー・バンシーズXロキシー・ミュージックといった感じの女性ヴォーカルのバンド。夜想はお店のスタッフもお客さんも皆暖かく、我々が帰るときには全員の拍手で送り出してくれ、感激。また近いうちにここでライヴしたいと思う。(写真はマナコと夜想の看板の前で)。

4月24日(金)
★今回のツアーでは、京都、名古屋、東京のステージで、最後にヴァイオリンで参加してくれているのが、名古屋在住でエモーショナル・アワというバンドをやっているヴァイオリニストの南野梓さん。名古屋では駅まで迎えに来ていただき、その後、梓さんの相棒のギタリストの谷村さんの弟さんが経営する「ザンビ」というヌーヴェル・フレンチの高級レストランで、フルコースの昼食をごちそうしていただき、ビンボウ人のメンバーたちは皆、大感激。以前は名古屋では友達の春日井くんがやっていたDAYTRIPに出ていたんだが、彼がお店を売ってしまったので、栄の真ん中の家賃の高そうなビルに入っているMUJIKAという新しいお店でやる。名古屋では全く知名度のない我々だが、ボクの名古屋在住の知り合いのSさんの息子の友達がギターで参加しているコメカミ・キッズという若い対バンが付き、彼らが我々の演奏中も盛り上げてくれた。しかし9時半の新幹線で東京に帰らねばならなかったため、あたふたと名古屋を去る (写真はMUJIKAでのステージ)

4月25日(土)
★3日間晴天続きだったのに、レコ発ファイナルの東京は夕方まで雨模様。それでも青い部屋には107人も集まってくれ、大盛況の内に終えられて我々も大感謝している。CDも30枚売れた。ゲストには一人GSの最鋭輝、SEXY歌謡ダンサーズの東京クレオパトラ、篠原太郎率いるGSビート・バンドのピノキオズ、リンボー・ダンスのチャタが皆それぞれに盛り上げてくれ、我々もアンコールをもらうほどに楽しんでノリノリで演奏することが出来た。共演者や来てくれた皆さん、本当にどうもありがとう。来てくれたある知人からの感想文を貼り付けておこう。「人混みの後ろから、なんとか前方をのぞきこむと、そこにはあられもない姿の女性たちが! 東京クレオパトラでした(笑)。 その後、上記東京クレオパトラに何度も讃辞をおくっていた(笑)ピノキオズのステージを経て、いよいよピーコック・ベイビーズの登場! 男3人女2人の混成バンド。 GSや昭和歌謡をやると聞いていましたが、個性あふれるメンバーのいでたちからは、ガレージ・サイケをはじめとするロックが薫る。 そして、バンドのネーミングの由来でもあろう、大原麗子が歌った「ピーコック・ベイビー」が、挨拶がわりにスタート。 ギターのリフレイン、けだるげなヴォーカルが、妖しいムードを漂わせる。 しかし、2曲目以降は、情念的とさえいえるギターメロディとヴォーカルの枯葉マナコのキャラクター、雰囲気も手伝って、幻想的というよりもむしろ熱を感じさせるパフォーマンスだったと思う。 それにしても、GSや昭和歌謡が、ここまでかっこいいロックに生まれ変わるとは。 メンバーのセンスやアレンジの秀逸さ、(賀句さんの?)原曲に対する愛情、音楽的背景の広がりと深さがそれをなしとげたのだろう。 欲をいえば、枯葉マナコがいろいろな意味でさらに突き抜けることができれば、凄味さえ獲得できるかもしれない。 賀句さんお手製のパエリアに後ろ髪をひかれながらも、翌日朝早いこともあって、CDを購入して帰途につく。 今日CDを聴いて、ますます気に入りました。 LOADEDも魅力的だけれど、ピーコック・ベイビーズもぜひ今後も続けていってください」。次回は6月28日(日)青い部屋にて「歌謡曲最前線VOL3]に出演します。共演はコンカオリ、歌姫楽団、田渕純、東京クレオパトラです。是非おこしください、CDもまだの人は是非買ってね!(写真は東京クレオパトラと、クレオパトラのKYOKOちゃんと)。

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4月11日(土)
かねてからの念願だった山崎ハコさんを青い部屋に呼ぶことが出来た。70年代フォークの女性シンガー&ソングライターの中では、金延幸子、浅川マキ(ブルース・シンガーのほうがぴったりくる)、中山ラビ・・などと共に大好きなシンガーだ。むしろ時代が経つにつれ、彼女の歌の深さがわかるようになった。夫でギタリストの安田さんとの2人だけの弾き語りライヴなのだが、会場は団塊の世代の白髪まじりの男女ばかり。ハコさんの歌は一般的に「暗い」と敬遠する向きもあるが、それは怨念のようなものではなく、むしろ祈りのようなひたむきな思いに満ちていて、それが胸を打つ。でもMCは以外に楽しく明るかったりする。ボクらPEACOCK BABIESも彼女の「気分を変えて」をカヴァーしているが、彼女にそのCDを渡すことが出来た。
戸川昌子さんも聴きにきていらして、終焉後、ハコさんと戸川さんが意気投合していたのも良かった。「飛びます」、「都会のビートル」、「しんちゃん」等の歌に涙が出そうになった

4月5日(日)
★ボクの昔からの悪ダチに、室矢憲治という音楽評論家、翻訳家がいて、彼は60年代に既にアメリカに渡り、アレン・ギンズバークらのビート詩人や、グレートフル・デッドのジェリー・ガルシアに会ったりしてきた人物だ。いわばビートニクやヒッピー時代の生き証人みたいな人なんだが、いつも飄々と言うか、ラリラリというか、とにかくナチュラル・ハイなゴキゲン・オヤジなのだ。オレのほうが、もう少しクールでカッコつけてる(笑)。その彼と3日に新百合丘の川崎アート・センターというところで、マーティン・スコセッシ監督のストーンズ映画『SHINE A LIGHT』の上映会で、ストーンズに関するトークショウをやった。が、トークショウというよりも、2人のロックオヤジのかけあい漫才みたいになってしまって苦笑。ザ・バンドやジャニスの出る「フェスティヴァル・・エクスプレス」等の3本立てロック映画のオールナイト会場で、弾き語りと、トークショウ付の企画をやってしまう、この川崎アートセンターは、新百合丘市の予算で運営されているらしいが、実にうらやましい町だと感じた。

★昨日の4日は、ボクも時々トークショウをやる原宿のTOKYO HIPSTARS CLUBで、金坂健二という60年代変革のアメリカを精力的に撮っていた写真家、映像作家の展覧会でムロケンが喋るというので、それを聴きに行った。金坂さんとはボクも生前何度かお会いしたことがあるが、彼の『地下のアメリカ』、『幻覚の共和国』という本は、当時アメリカのカウンター・カルチャーの裏側を知るバイブルのような本だった。貴重な写真の数々が展示され、ムロケンが60年代カウンター・カルチャーについてわかりやすくレクチャーする夜だった。終了後、原宿のタイ料理屋でムロケン、赤塚フジオさんの娘さんと飲んだ。

 

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3月30(月)
★吉祥寺の「曼荼羅」へ、CHIHANAのレコ発ワンマン・ライヴを観にいく。彼女はまだ20歳のかわいい女子大生なのだが、なんとそんなに若いのにドブロ・ギターを持って、古いブルースやフォーク&カントリーなどを弾き語りする、新時代のブルース・シンガーなのだ。「青い部屋」にも定期的に出てもらっているが、彼女のことが業界でも少しずつ話題になっていて、奥田民夫のプロデューサーなどが観に来るようになってきた。元村八分のよっちゃんこと加藤義明や、町田謙介&ナポレオン山岸、モンゴル松尾など、みな「青い部屋」のブルース・デイの常連のおじさんミュージシャンたちがCHIHANAと順にセッションして、とてもアット・ホームないい夜だった。会場は満員で50人ほど入っていた。勿論、オレもご祝儀変わりにチケットを買って入った。終焉後友達とハナシていると、CHIHANAのお母さんが声をかけてきて、彼女はスト-ンズのファンでオレの名前を知っているらしい。お父さんは若い頃レッド・ツェッペリンのコピー・バンドをやっていて、家にギターが14本もあったとか。実にうらやましい環境が、こんな天才少女を作るのだなと思った。終焉後駅前のホルモン道場で町田くん、ナポレオン、よっちゃん、CHIHANAと打ち上げに参加する。なんとその日はCHIHANAの奢りで、おじさんたちは更にCHIHANAのファンになってしまうのだった。
3月28日(日)
★4月になれば、彼女は・・なんて思わせぶりなタイトルだが、サイモン&ガーファンクルの曲にそいういうのがあったので、使ってみただけ。正確には4月になれば、彼女が現れるのか・・・といったところか(笑)

★土曜日のブルベはGOLDENのレコ発で、なんと彼らは50人もお客さんを動員し、全部で75人も入って大盛況であった。彼らはサイレント・タングの頃からブルベの常連で、ずっと応援してきたバンドだが、ギター、マンドリンを弾きながら歌う斉藤浩太のエモーショナルな表現力と、レナード・コーエンやニック・ケイブにも通じるシュールでエキセントリックな歌詞の世界、そしてジョン・スペンサーにも通じるオルタナティヴな音楽性がアメリカでも認められ、アメリカのツルミ・レコードというところから、LPとCDが発売された。個性も実力も持ち合わせた素晴らしいバンドである。

★最近、両手の指先にしびれ感を感じ、病院へ行ってレントゲンを撮って見たら、以前に痛めた頚椎の骨が弱くなっていて、一種のカルシウム不足のような状態になっているという。パンやパスタばかり食べていても、そうなるのだそうだ。パスタや麺は毎日食べているもんなあ。大原麗子が、手足に力が入らなくなる、ギランバレー症候群にかかっているそうだが、それではなくてよかった。とりあえず、大量のカルシウムとビタミンBとCを処方された。

★50も過ぎると、新しいものより、過去に体験したものを、再度検証というか、味わいなおすというか、また再検証してみたくなってくる。過去にアナログで散々聴いたロックのアルバムを、最高の音質と言われるSHM-CDで聴きなおしたり、チャンドラーの名作「ロング・グッドバイ」やフィッツジェラルドの「華麗なるギャッビー」を新たな村上春樹訳で読んでみたり・・といった具合。最近よく聴いているのは60年代のオールディーズ、60年代のブリルビルやティンパンアレー系の職業作曲家の書いたヒット曲を集めたオムニバス盤とか、60年代のビーチ・ボーイズやプレスリーやロイ・オービソンとか。こないだナミダ・ボーイズに曲を書いてから、他人のためにいわゆるヒット・ポップスみたいな曲を書きたいと思うようになってきた。歌謡曲もアメリカの60年代ポップスも、実に職人芸なのだな、これが。最近になってやっとそういう音楽の構造的なことが判ってきた気がする。
3月23日(月)
★毎日が忙しく過ぎ去っていく。「青い部屋」のLIVE BOOKING,DJ,PEACOCK BABIESのCD発売前のプレゼンやツアーのフライヤー製作、そしてPLAYHOUSE改めナミダ★ボーイズのアルバムのプロデュース。ナミダ★ボーイズはもう10年以上活動してきたスリーピースのキャロル系のR&Rバンドだが、さすが10年やっているから演奏は上手く、レコーディングもポンポンと順調なスピードで進行している。ただ彼らの曲だけではちと地味な感じがしたので、オレが2曲新曲を書いてみた。1曲は典型的なR&Rだが、歌詞が昨今の社会事情を風刺したもの、もう1曲がロックン・ロールマンの淡いラウ・ストーリーを歌ったロッカ・バラード。この曲意外に評判が良く、若い頃の永ちゃんか舘ヒロシにでも歌って欲しかったようなナンバー。既に12曲のバッキング・トラックと6曲の歌入れが終わっている。あとはギター・ソロとコーラス・パート、そして最終トラック・ダウン。他人に曲を書くのは、自分のキャラと全く違う設定で書けるので、意外に楽しい。PEACOCK BABIESでも、今後はマナコのためにオリジナルを書いていくつもりだ。

★青い部屋では、ラテンに詳しいSさんにオーガナイズを頼んで「ラテン交差点」というラテン系のイヴェントを既に2回やったが、いずれも盛況で、色んな種類のラテン系バンドの歌と演奏、そしてダンスが楽しめた。とりあえず4月18日の3回目が最終回なのだが、せっかくのラテン音楽を未体験の人たちにも広げていくために、今後も継続してやっていきたいと思う。パエリアを作ってお店でだしてみたが、好評だった。

★今日はやっと休みでのんびりとできたが、先週春めいたと思ったら、また寒くなってきて、早く花見でもしたいものだ。「青い部屋」に出ていると、毎月毎月キレイなお姉さまたちが現れ、何事か絡むことになるのだが、これが恋愛に発展するような、運命的な「ビビビ」という波動にはつながらないのが歯がゆいのだが、占い師をやっていると、相手との未来までもがわかってしまうので、クールダウンしてしまうのである。運命の出会いというのは、いつやってくるのだろうか。
2月20日(金)
50歳を過ぎる頃から、色々と自分の心境というか、人生観が変化してきたのを感じるようになった。例えば、小さなこととかを気にしなくなったし、人にあまり腹をたてなくなった。昔は大嫌いで、顔をみたくもないと思っているヤツと偶然に出会っても、「やあ」と挨拶だけする余裕ができるようになった。ただ義理に反したことをする奴はそう簡単には許せない。先日友人の映画監督の高橋玄が、ブログの中で「私はすべてを「筋=スジ」の問題で解釈する。合法か違法か、善か悪か、ではなく「義か不義か」で見るのがスジ論だ」と書いていたが、ボクも全く同感である。前につきあっていた女は、物事を善か悪かでしか考えられず、義か不義かという概念が理解できなかったから、別れたのだ。

哀しいことや嫌なことが起こっても、まあこれも何かを自分に教えるために起こっていることなんだ・・・と思えるようになってきた。それはボクがもう10年以上、占いというか運命学を学んできたからかもしれない。この世で自分の前に起こっているできごとは、決して偶然ではなく、必然であり、自分に何かを教えるために起こっていることなんだ・・・という考えをボクは信じている。

音楽だって昔はゴリゴリのロック馬鹿で、ロック以外のジャズや歌謡曲なんてのは、徹底的に敵対視してきたが、DJをやったりして色いろんなジャンルの音楽を聴くようになって、あらゆるジャンルの音楽やアートには、それぞれ誰が体験しても凄いと思わせる「天才」や「マエストロ」がいることが理解できるようになり、また和食以外のイタリアン、フレンチ、中華、韓国料理、インド料理・・と、それぞれに色々なジャンルにも美味しい料理があるように、色々なジャンルの音楽を楽しむようになった。最近DJでは越路吹雪の古いシャンソンから、ブラジル音楽、サザン・ソウル、ブーガルー、ラテン・ジャズ、70年代フォーク、コミック・ソングなど、なんでもありで、むしろロックはあまりイヴェント以外ではあえてかけていない。あまりにも聴きすぎて飽きてしまっていることもあるが・・

最近とみに思うのは、愛し合える人が欲しいなということだ。これまで一度離婚して、7年同棲して、その他にも1年とか短いスパンで何人かの女性と付き合ってきたが、結局、男と女は、誰に最期を看取ってもらうかだと思うようになった。自分の最期を看取ってくれる関係の人が、人生最後の相手だと思う。自分が死んだら葬式を出してくれて、親しい友達や関係者に連絡を取ってくれて、残された猫の世話をしてくれる。そんな人がやはり必要だ。勿論、そのぶん、彼女のためにお金は残しておく。飯島愛みたいに、一人ぼっちで、死後1週間して腐乱死体で見つかるのは嫌だ。今まで色々女性と恋をしてきたが、今はもっと実直に人生の「つれあい」「ライフ・パートナー」を見つけたい。かわいい子やきれいな子、いいなと思う子は身の回りにも沢山いるけど、この人とライフ・パートナーとなりたいと思える人はなかなか見つからない。
毎月、ちょっと気になる人が目の前に現れるのだが、それ以上進展しない。去年は6人の女性と映画やコンサートや食事にいったりとデートしたが、それ以上追いかけたいとは思えなかった。
先日の「占いの館」で、西洋占星術でよく当たる銭天牛先生に占ってもらったら、今年の10月頃に現れるそうなので、それまで待つようにと言われた。誰かボクと付き合いたい人いたら、メールください。条件は1)音楽や芸術が人生で重要なパートを占めている人、2)自分でも何か表現活動を本気でやっている人、3)お洒落な人、4)料理が上手、あるいは食べることが好きな人、5)お酒が少しでも飲める人、6)セックスに偏見を持っていない人、7)ブランドとか贅沢とか拝金主義よりも、スピリチャルな世界を求めている人、8)猫や小動物が好きでかわいがれる人、9)精神的に自立している人、10)旅行や人と知り合うことにオープンな人、11)何かやりたいことのために学んだり、勉強したり、努力している人、12)男女の関係以外に、お互いが相手をリスペクトできて、お互いに学びあっていける人,13)お互いに時間をやりくりして、旅行、映画、コンサートなど、共通の思い出を作っていける人

とりあえず、お話ししたいですね。こんなことを書きたくなったのは、
ネットで樹木希林さんと内田裕也さん夫婦のことが載っていたから。内田裕也さんといえば、家庭崩壊のイメージがあったけど、結局最期は皆、夫婦の愛に帰っていくのかなあと思った。とてもいい記事である。


乳がんの手術を平成17年に受けた女優の樹木希林さん(66)。「納得のいく死」を意識したとき、脳裏に浮かんだのは、ロック歌手の内田裕也さんのこと。長年、別居していた夫と向き合おう。そう決意して対面したと語る樹木さんの目には、力強いエネルギーが宿っていました。(竹中文)

乳がんの手術をする直前に内田裕也さんと向き合おうと思ったんです。

 裕也さんは昭和56年に、私に無断で区役所に離婚届を出しました。私が離婚無効の訴訟を起こし、裁判で争い、裁判官にまで「あんなに嫌がっているんだから、別れてあげなさいよ」なんて言われたことがあったんです(笑)。裁判で離婚は無効になり、籍は戻ったけど、裕也さんと連絡を取るのは1年に1回だけ。このまま裕也さんを恨んで死ぬのは悪いなと思って、ほったらかしにしていたことを謝ろうと思ったの。

 でも、男の人って、いろんな質(たち)があるけれど、別居している奥さんと面と向かって、しっかり話をするというのは苦手なんじゃないかな。まして夫なんて、カーッとして一生送っているという感じだから、2人だけでは話はできないと思ったの。

               ■ □ ■

 だから、知人に「謝りたいから、仲介して」とお願いして、食事の席を設けてもらったんです。でも、夫は1時間ぐらい、次から次へと違う話をして核心には触れさせてくれなかった。

 そのうち時間がなくなってきて、仲介者が時計を見始めたから「ちょっと私にしゃべらせて!」「謝らせてくれ!」と怒鳴ったわけ。首根っこをつかまえて謝るっていう感じだったわね。仲介者には「けんかごしで謝っている現場を初めて見た」と言われました(笑)。

 そのとき、裕也さんは何も言わなくて、そのまま、さようならって別れたんだけど、その後、別の知人が、飲食店で、ものすごく機嫌のいい裕也さんと会ったらしい。夫は何かを承知したんでしょうね。

 それから月に1度、裕也さんと会うようになって。長い夫婦の戦いは終わりました。元気なうちは分かりあえなかったけれど、お互いに病気して、体力がなくなっちゃったから通じあうようになったんだろうね。私は15年に網膜剥離(はくり)になって、裕也さんも同じころに目の病気を経験して。それから私が乳がんになって、お互いに“老老介護”が必要になったのね。

               ■ □ ■

 昨年の夏には「祇園祭に行ってみようか」「いいね」という話になって、一緒に宿泊したんです。目が悪いと危ないから、いつも腕を握っていました。偶然、そうなっちゃったのよ。熟年離婚なんて言葉も浸透してきちゃったけど、老いてから別れるのはもったいないわよ。

 乳がんの手術後、毎年1月には、裕也さんと一緒にハワイで過ごすようにもなりました。真珠湾では必ず手を合わせる。そこにも一緒に手をつないでいく。毎年、これが最後だなあって思いながらいくわけよ。そんなに先が長いとは思えない。その覚悟はあるから。

 私の出演した映画「歩いても 歩いても」について、裕也さんが感想を言ってくれたこともありました。「一般料金で映画館で見たぞ」だってさ。シニアの料金で見ればいいのにさ。そんなところで頑張るんだよね(笑)。「映画に登場するような会話がない夫婦にはなりたくねえな」と言っていたけど、でも、長年連れ添ったら顔を見なくても意思疎通ができるのは自然よね。うちは一緒に住んでいなくて、会うときは話があるから、いつも目を見てしゃべっているだけ。

 嫌な話になったとしても、顔だけは笑うようにしているのよ。井戸のポンプでも、動かしていれば、そのうち水が出てくるでしょう。同じように、面白くなくても、にっこり笑っていると、だんだんうれしい感情がわいてくる。だいたい私は仏頂面なので、「なあに」なんて言っただけでも、裕也さんに「怒ってんのか」と言われちゃう(笑)。そうならないようにね。

 死に向けて行う作業は、おわびですね。謝るのはお金がかからないから、ケチな私にピッタリなのよ。謝っちゃったら、すっきりするしね。がんはありがたい病気よ。周囲の相手が自分と真剣に向き合ってくれますから。ひょっとしたら、この人は来年はいないかもしれないと思ったら、その人との時間は大事でしょう。そういう意味で、がんは面白いんですよね。

2月1日(日)
★昨日はPLAYHOUSE改めなみだBOYSの3人のメンバーが来宅し、常夜鍋を食べて、彼らのレコーディング予定のアルバム用の曲作りをやってみたが、曲はロックンロールだからすぐできるが、一般大衆が共感する歌詞とはなんぞや、と、色々とアイデアを出し合ううちに終わってしまった。

★彼らのアルバムに取り掛かる前に、自分たちPEACOCK BABIESの4月22日発売予定のデヴュー・アルバムのために、レコード会社やデザイナーと打ち合わせをしたり、レコ発LIVE(大阪、京都、名古屋、東京を予定している)のための準備など、雑用が一杯あるのだが、今日は久しぶりに1日中家に居て、メールをしたりDVDを見たりと、まったりとして過ごした。こうしてたまには一人になって、自分だけの世界に浸るというのは、ボクには絶対必要だな。そうしないと精神的におかしくなってしまう。

★コーマック・マッカーシーというピューリッツア賞受賞のアメリカの現代作家がいて、日本でも文庫本が翻訳されているが、今日は彼の小説が原作となっている映画を2本観た。ひとつは2007年のアカデミー賞の作品賞を受賞したコーエン兄弟監督作の『ノーカントリー』と、マット・ディモンとペネロペ・クルス主演の『すべての美しい馬』(2000年)だ。コーエン兄弟の作品は独特のハードボイルド感と、暴力的描写が多いが、この『ノーカントリー』も、殺し屋役のハビエル・バルデムがめちゃ不気味な演技を見せ付けていた。トミー・リー・ジョーンズ演じる保安官が麻薬取引の金200万ドルを奪って逃走し、それを殺し屋が追うというスリリングな映画で、とても面白かった。『すべての美しい馬』は、テキサスから友達と2人馬に乗り、メキシコで牧場で働くためにやってきたマット・ディモン演じる青年が、恋に落ち、また罠にはめられたり、刑務所で殺されかけたりしながら、それらに立ち向かっていく青春人生ドラマだが、これもとても観終わったあと、ピュアな気持ちになれた映画だった。

★2本の映画はジャンル的には全く違っているが、コーマック・マッカーシーという作家の原作には、なにか共通するテーマを感じた。アメリカの田舎街。一見平和に見える街の影に、とんでもない悪や命を落としかねない事件が潜んでいて、それに巻き込まれていく主人公たち。そしてそれらに立ち向かっていく捨て身の勇気・・・といったものだろうか・・ボクたちの生きている日常に「勇気を持って」生きている場面は、一体どのくらいあるだろうか、と考えてしまった。困難に打ち勝つためには、勇気が必要なのだ。
鳥井賀句